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- 2023.06.23 Friday
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「誰も知らない」のモチーフとなった事件
古い事件のため、なかなかソースが見つからなかったため、当時の新聞記事から転載して掲載することとした。
TB・コメントはたくさんの方々からご意見をいただいています。ちょっとした心情のはけ口としてご利用いただいても結構です。(追記)
<<1988年朝日新聞記事より>>
・母親(事件発覚当時40歳)は川崎の私立高校卒業後、服飾専門学校に進学
・歌手を目指したこともあり、実際にレコードも何枚か出している。
・昭和43年頃からデパートの派遣店員として就労。勤め先で男性と同棲を始める。
・この男性との結婚を両親から猛反対される。
・2人の間に子どもができたが、その子は養子に出している。
・48年、同じ男性との子を足立区で出産するが、母親は「正式の夫との間にできた子どもではなので怖くなり、結局出生届はださずじまいだった」。この子が長男で事件発覚当時の14歳少年。少年は父親については「わからない」と話している。(母親はこれまで父親の違う子どもを5人生んだと話しているが、少なくとも3人の男性との間に、6児を出産。養子に出した子と長男以外は、すべて自宅で自分の力だけで生んだということが判明)
・その後都内のマンションを転々とし、食いつなぐために窃盗や売春をし、警察に捕まったこともあったという。
・56年頃に長女(事件発覚当時の7歳)を出産。
・59年9月に次男を生んでいるが、この子は60年2月に仕事から家に帰ると、ほ乳瓶をくわえたまま死んでいた。処置に困り当時住んでいた家に隠していた。
・母親は長男に「親戚のおじさんに預けた」と説明している。
・60年頃に二女(事件発覚当時の3歳)を出産
・61年7月に三女を出産
・62年9月頃までは大塚駅周辺に住んでいたが、その後西巣鴨に転居。死んでいた次男はビニール袋に入れてスーツケースに入れたまま荷物として運んだ。
・西巣鴨のマンションは表通りに面した鉄筋四階建て。住んでいたのは2階で、1階には24時間営業のコンビニがあった。
・大家には、「長男と2人暮らし。長男は立教中学に通っている。夫は数年前に死亡した」「私はデパートに勤めている」と話して大家を信用させマンションに入居。大家は他に子どもがいることは知らなかったと話している。
・長男には「事情があって今は学校に行けないが、いつかは行けるように手続きしてやる」と言い聞かせ、市販されている学習ブックを買い与えていた。(発覚時、名前を書かせても、姓は漢字で書けるものの、名前はひらがなでしか書けなかった。
・62年秋頃から千葉県浦安市の冷凍食品販売業の愛人(56歳)ができ、愛人のところに入り浸るようになった。長男の話では62年秋頃から、「仕事で大阪に出張する」と言ってマンションを出たままだというが、母親はときどき2・3万円ずつ送金してきたようで、たまに姿をみせていたこともある。
・その後、63年の正月に一度戻っているが、子どもが邪魔になってマンションに置き去りにし、千葉県内の愛人のマンションに同居していた。長男には千葉県の住所を教えていた。
・長男によると、マンションには時々男性が「元気か」と訪ねてきていたらしいが、愛人か長男の父親かはわからない。
・長男は、いなくなった母親の代わりに食事を作ったり、おむつを取り替えたりしていた。また、毎日のようにコンビニを訪れては菓子パンやおにぎり、アイスクリームなどを買っていた。コンビニの店長は「夜中の2、3時に来たり、学校のある昼間の時間帯にもしばしば見かけたりするので、変だなあと思っていた」と話していた。
・母親がいなくなって、11月頃に長男は近所の菓子店で中学1年生の2人と知り合う。彼らは頻繁に出入りするようになった。
・63年3月末、長男は滞納していた1月までの3ヶ月分の家賃(27万円)を支払ったが、2月以降は未払いでその後はガスと電気を止められていた。
・4月21日昼頃、遊びに来ていた友達2人のうちの1人が前日に買っておいたカップめんがなくなっているのに気づいた。三女(2歳)の口元にのりが付いていたため、長男が(あるいは友だちが)三女が食べたと思い殴りはじめた。
・友人2人は、はじめは「長男がやめろと止めた」と供述していたが、その後「初めは、長男も殴った」と話し、長男も「3人でいじめた」と認めた。
・長男は死なせた3女を含め3人の妹の面倒を一人でみていたが、言うことをきかない幼い妹たちに困り果て、そそうをしたりすると体罰を加えていたようだ。
・三女は翌22日午前8時半ごろ死亡。「三女が死亡する致命傷は、長男でなく友人が押し入れから何回も落としたことによる」と長男の弁護士は述べている。
・26日、長男は三女の遺体を友人2人とともにビニール袋に包み、さらにボストンバッグに詰めて、3人で電車に乗り、夜11時頃秩父市大宮の公園わきの雑木林に捨てた。友人のうち1人は「夜遅くなるとしかられる」と途中で電車を降りた。
・2人は遺体を捨てた後、帰る電車がなかったため、その夜は駅で明かした、という。
・見つかった三女の遺体は、カーディガンとスカート姿だった。
・17日、「親は帰ってこないし、不良のたまり場になっている」という大家の連絡で、巣鴨署員がドアを開けると長女と次女がいた。大家がバナナとおにぎりを差し出すと、むさぼるように食べた。
・長男は「夜の商売の人の子どもで預かっている。母は大阪に仕事にでかけている」と説明した。
・18日午前10時、同署員と福祉事務所の女子相談員が訪れると、玄関を入ってすぐのダイニングに妹2人が毛布にくるまって寝ていた。長男は奥の6畳に布団を敷いて寝ており、パジャマ姿で出てきた。
・妹たちは衰弱しきった様子で、特に3歳の二女はガリガリにやせていた。
・カーテンは閉め切り、部屋には衣類が散乱。台所には残飯の一部がかびた状態で残っていた。
・部屋には一通りの家具があり、電気炊飯器でご飯が炊かれ、電熱器にはみそ汁をつくったなべがかけられた跡があった。冷蔵庫にはニンジン、タマネギ、キャベツなどが入っていた。洗濯機には洗いかけの衣類が入っていた。
・2人の妹は「パンが欲しい」と言い、相談員が買ってきたパンと牛乳をおいしそうに食べ、その後もアイスクリーム、チョコレートなどと食べ物を欲しがった。
・「どうしたの」という問いかけに、7歳の長女は「お兄ちゃんに面倒をみてもらっている」と話すばかりだった。
・2人の妹は新宿区の都児童相談センターに預けられた。
・長男は21日朝、友人の父親に付き添われて福祉事務所を訪れ保護されたが、センターに空きがないため、都八王子児童相談所に収容された。健康状態、顔色ともにごく普通であったという。
・23日、千葉県内の愛人のマンションに同居していた母親は「テレビのニュースで事件を知り、自首しようと思った。中学程度の子どもに幼い子みんなの面倒を見させて悪かったと思う」と話し、保護者遺棄の疑いで緊急逮捕された。涙は見せていないという。
・母親は発見された子どものほかにも三女を産んだと話していた。
・25日、長男は三女をせっかん死させたことを供述し、傷害致死と死体遺棄の疑いで逮捕。この日まで児童相談所に収容されていたが、三女のせっかん死を供述してからは目に見えて顔つきが穏やかになった。「やはり、隠し事があるのを気にしていたのでしょう。秩父の現場検証から帰ってきたときは、重荷をおろしたような表情でした」と児相の所長は話している。
・「本当に優しい子だと感じた。社会の汚れに染まらず生きてきて、母親も絶対的な存在だった。でも、友人との出会いで、小さな子どもの世話をするのが重荷に感じてきたのでは」とセンターの職員は話した。
・8月10日、東京地検は、この長男を傷害致死、死体遺棄罪で東京家裁に送致。同地検は「母親さえいれば起こりえなかった事件であり、長男には教育的措置が必要」として少年院ではなく、教護院へ送ることが相当との、異例の処遇意見を付けた。今回は長男が戸籍もなく、全く学校教育を受けていないなど特殊な事情があり、児童福祉施設の教護院で教育を受けさせる方が良いと判断したという。
・犯行に加わった少年2人は、刑事責任を問えない年齢であり巣鴨署で補導した。
・10月26日、保護者遺棄、同致傷の罪に問われた母親に対する判決公判があり、裁判官は「わが子を養育するわずらわしさから逃れようとした無責任、身勝手きわまりない犯行。三女の死の遠因となったといっても過言ではない」として、懲役3年、執行猶予4年(求刑懲役3年)の有罪判決を言い渡した。
・判決理由の中で、執行猶予について「子ども出生を届けず、学校にも通わせないなど母親の自覚がなく、放置が続けば子どもの生命が失われる危険もあった。親の責任を放棄した罪は重いが、同姓相手と結婚してやり直すと誓っていることなどを考慮、今回に限り、自力更生の機会を与えることにした」と述べた。
*要参照+MONSTERS+
感想は、感動・かわいそう・無惨などという気持ちではなく、「誰も知らない」が真実を簡潔に教えてくれたと思います。
やはり子供は責任と愛情がないと、育てていけないものですね。
涙で、なにも思えません。
子供たちは皆可愛いらしく、また、その無邪気さが
この映画をなんとも言えない考えさせられるものに仕上げたと
思います。実際の事件をモチーフにしていたと監督のインタビューで知り、本当に言葉が出ませんでした。
身勝手な親による事件が存在する現代ですが、
どんな親だろうと子供は心底に憎しみを持つようなことはできないと
思います。皆、お母さんから生まれたんですから。
実際はもっと悲惨で残酷なものでしたが、さわやかに好演し、
こんな現実が存在していたことを伝えてくれた子供たち、監督、
スタッフの皆さんに敬意を表します。
彼女のとった行動は特別なことではなく、どの人間も持っている要素だと思います。それは、育ってきた環境や周囲の人たちとのかかわりに大きく由来します。そして、結局一番にしわ寄せを受けるのが子どもたちだと感じます。現に毎日、世界中で、子どもが悲惨な目にあう事件がおきています。
幼い子どもの社会では、親が全てです。また、この映画のように、他の社会からほぼ隔絶した中では、比較するような人間関係が発達していないため、どんなにひどい目にあっても苦しくても抜け出せないし、今の生活が変だなという気持ちが生まれてさえこない。それが彼らの日常です。そして、親が圧倒的な力を持つ社会にいるわけです。これがとても悲惨な状況を生み出す一因になりうるから、恐ろしい。きゅうさんがおっしゃっている通り、子どもは、親にどんなに悲惨な目にあわされても、例え愛情が希薄だと客観的に認識し、恨んでいたとしても、親の愛を渇望します。きれい事とかではなく、愛情がなければ本当に人間は生きていけないからです。そして、どんな状況下でも、幼い子どもは生きようとします。痛々しいほど懸命に生き抜こうとするのです。
そして、世の中の親がみんな愛情深いわけではないのが現実です。映画に登場したような親は、悲しいけれど世界中にいます。それは自分とは決して無関係ではないと感じます。
子どもへの親の責任と愛情は当然である、と言われる方もいるでしょう。実際、この二つは絶対に必要ですし、それを実践するのは本当に素晴らしい事。しかし同時に、とても大変でもあります。親も一人の人間で、単独では限界があります。支えあう家族や友人、仲間がいて、守り育てる社会を作る。そこで成長した子どもが、やがて大人になり、親になっていく。親もまた、子どもの存在と、仲間と、自分の暮らす社会によって誕生し、育てられていく。つまり、大人たちが作っている社会がどんなものか、どんな大人や親がいるか、その結果が、子どもたちにあらわれる。そして彼らの中に、大人は、自身と、社会の現実を見出せる。この映画は、改めてそう私に教えてくれ
そして彼らの中に、大人は、自身と、社会の現実を見出せる。この映画は、改めてそう私に教えてくれました。
一つ気になったのは、この映画が当事者と話あって作られたものかどうかということです。彼らも大人になり、この映画を見る可能性もあるわけです。事実そっくりではなくても、自分が題材にされた映画が世界中の人にみられるのだから、映画化に同意するのは、それなりの考えや覚悟がないとできないと思います。ご存知の方があれば教えてください。
映画を見て初めてこの事件を知りました。”誰の目にも触れることがなかった” ということの意味をどう受け止めてよいか、そのあまりの大きさに戸惑いつつ、長い間頭から離れませんでした。世間から風化し、消え去ってしまう前に、丁寧にすくいとるかのように映画にしてくれたことに感謝したい。小さく、そして大きな事件だったと思います。
映画をみてこの後どうなるのか気になり調べましたらこのサイトにたどりつきました。
実際にあったのが信じられませんでした・・・・
このblogにも詳細をアップしていいものかどうか、かなり迷いました。
もし、彼女があの子たちが見たらどう思うか…。
思い出したくない過去を突きつけられたら…。
詳細を公表に踏み切ったのは、この映画自体を深く理解する上で、事件の背景を知る必要があると感じたからです。事件の詳細を調べ、あらためて見てみると、暗喩的に挿入されるエピソードは、それがごく些細なものであっても、非常に重要な意味を持って迫ってきます。そう、監督はかなり詳しく取材したのでしょう。
この映画の持つ深さを理解し、「生きる」ことの懸命さ、そして理不尽さをもう一度考えてみたい。そういった思いをこめて、あえて公開しています。
確かに、この情報がプラスになるかどうかは議論が分かれるところだろうと思います。みなさんのご意見をお願いします。
監督が当事者に会うことは、現実的には難しいのですね。
また、万が一、会っていたとしても、彼らの将来を考えれば公表しないでしょうね。
最近、現実の、隠すことのできない、どこまでも生々しいありのままの様子や姿をして、また、その状態の中、私たちは生きているのだなと感じます。どんなにごまかそうとしても、現実はそこにあり、自分自身が現実です。それを、悲しいとか、苦しいとか、嬉しいと思うのは、人間の心です。私たちがどう感じて受け止めていくかで、時には状況を変えることも可能だと思います。何だか当たり前な事を言っている気がしますが、世の中のどんな状況も、例え地球の裏側で起こっている事件でも、全て自分の現実なのだと感じる気持ちが、今、とっても大事なんじゃないかと思います。そこから、何かが生まれるのだと思います。
事件の事を知らなかったかもしれない。だけど、映画をみた事によって、自分達と似ている。。。この事件の事について調べ母親に対して、憎しみが出てきてしまうかもしれない。
そう考えると、もう少し・・せめて妹達が母親になる時までは・公開を控えた方が良かった気がします。。
映画は大好きで、是枝監督の映画も好きなんだけど、実話を基に作られた、というこの内容があまりにつらそうで、劇場に行く勇気がありませんでした。
本人たちに確認をとっているか・・・。
きっと、とれていないですよね。
冒頭に
「実際に起こった事件を基に作られていますが、心象については架空の物です」
みたいな内容が入りますよね?
あの文章が一番最初に入れられることに、監督の気持ちがとても込められているような気がします。。
監督の謝罪と祈りの言葉のような気がしました。
一番弱いものが犠牲になる、なんて言い古されたような言葉だけど、
本当に、そう思いました。
普通に考えたら異常な状況に、徐々にあたりまえに馴染んでいってしまっている子供たち(特に長男)がつらくて、涙が止まりませんでした。
母親が、子供達を捨てていなければいいなと、思います
自分も、ほぼ同じような境遇でしたが、同世代、同じ時期、同じ地域(4駅程度の距離)で似たようなことがあったのは知りませんでした。
アキラが「学校に行きたい」といったときの母親の返答などを聞いていると、自分の時と同じ返答で、苦笑いがこみ上げてきました。
当時の自分と照らし合わせても、違和感がないくらいリアルなつくりでした。
この環境って、本人が必要以上に気にしなければ、その後の人生の軌道修正もなんとかなるものなので、当事者の人達には、乗り越えていてほしいですね。
マンションの一室で生まれて存在を世間に認知されない生活。
育ちざかりなのにそこから外に出ることのできない生活。
状況を理解してしまい、わがままを言えずに自分の役目を懸命に果たす生活。
長男がゆえに下の子達を思いやって嘘をつき養っていく生活。
子供たちはそれぞれに懸命に生きているのに、母親からでてきた言葉は
「私は幸せになっちゃいけないの?」
本当は母親が果たすべき役割を果たさず、自分の幸せばかりを追い求めた母親がいたためにこんな不幸な出来事が起こったのだと思います。
誰かのために我慢をしたりできなければ母親になる資格なんてないと思う。
つらい思いをしてきた人は乗り越えて幸せになってほしいと思うし、それ以上にこれから子供を産むなら本当に幸せにできるのかしっかりと考えて産まなければいけないと改めて思いました。
実は用事があって終盤30分が見れなかったのですが、母親が帰らず荒んでゆく過程が痛々しくて、見れなかった分が非常に気になっていました。
冒頭の、実在の事件に基づくというテロップが頭から離れなかったので、検索したところこちらのページに辿り着きました。実際の事件はそのような結末になっていたとは、とても驚きました。悲しいことです。
私も母子家庭(父親は小学校前に他界)でした。
しかし、息子が言うのもの何ですがとても出来た母親で、私が社会に出るまで不自由を感じることなく育ててくれました。他にコメントを書かれている方で、似たような境遇だったという方が少なからず居られることに、なんというか、とても複雑な心境です。
映画としてはとても丁寧な描写で好感が持てました。だからこそ余計に切ないのですが…。DVD出ているそうなので、後で残りをぜひこの目で見たいと思います。
とても参考になりました。どうもありがとうございます。(trackbackさせていただきました)
また、こちらのコメントを読ませていただき、「似たような境遇にいらっしゃった方」があまりに多いことに驚きました。
私がこの映画を観て感じたことは、「どのような事件であったのか」「当事者に映画化の承諾を得ているのか」という2点でした。
というのも、元となる事件があまりにも「特異」であるために、(調べる気がありさえすれば)例え初心者であっても「当事者」のプライバシーが暴かれてしまう恐れがあるのではないか、と感じたためです。
リスクが大きいのではないか、と。
しかし、私の予想以上に『主人公』たちの境遇と「自身」の境遇に重なる方が多くて驚きました。
問題は「特異な環境で育った個人が特定されてしまう」ではなく、「特異だと勘違いして現実をいいように歪めている」者の側にあるのではないか、とさえ思えてきました。
>「私は幸せになっちゃいけないの?」
という母親のセリフは、衝撃的でした。
「置き去り事件」は実は我々の身近にあふれています。
母親が子どもに対し件のセリフを吐く、そのような態度を取る、そのようなことは残念ながら珍しいことではありません。
こういう極端な形にならなければ目に見えないといった「不透明さ」を秘めているだけです。(たいへんタチが悪いですね)
母親は当然幸せになってもいい。
しかし、その幸せを「子ども」に求めてはいけない。
さらにいうなら、子どもに母親をさせてはいけません。
実際に「母である」「父である」以上に、家族的役割としての心的「母」「父」を子どもに負わせるべきではないのです。
そういったことに、日頃から敏感でいたいと思いました。
母親が3年で出てこれるだなんて、罪が軽すぎると思いました。死刑でも良かったぐらい。子供の受けた悲痛に比べれば、それが妥当です・・。信じられない。
やはり、私の子供の頃を思い出させ、オーバーラップして見てたから。
私は一人っ子でしたから、下の子の世話は無かったのものの、夜は本当に淋しくて、怖くて、いつも泣いていました。
見知らぬおじさんが、寝室に入って来て、レイプされそうになって、包丁を持って、裸足で逃げたことも。。。
だから、今でも一人で過ごす夜は怖いです。
そんな、トラウマを一生背負って、生きて行かなくてはならない子供の気持ちを考えたら、本当に母親の3年の懲役はどうかと私も思いました。
終わり方だったので、実話の顛末を知りたいと思い、
こちらにたどり着きました。
拝読後、映画はあの終わり方でよかったのかも
知れないな、と感じました。
ひとことお礼を言いたくてコメントしました。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。
たくさんのコメント、ひとつひとつ読ませていただきました。やはりたくさんの方の感じ方、考え方に触れてみるものです。私には及びもつかなかった指摘がいくつもありました。個人的には、とくに事件の当事者、関係者が今これをどう受けとめているかという内容について。
これだけ賛否両論のほか、様々な観点からコメントが寄せられるということ事態、この映画が“生きてる”ということではないでしょうか。
私はこの映画を3回観ました。
「誰も知らない」とは一体なんでしょう。
漠然と把握しているような気がしていませんか?
それは確かですか?それ「だけ」のことですか?
誰が何を知っていて、誰も何を知らないというのでしょう。
結論づけを急ぐのは傲慢無知です。きっと。
じっくりみた。複雑、空虚?何とも言葉では表現できない心境。でも心に何かが伝わっている・・・。
ただ、思うこと。それは、現在の兄弟たちの月並みな幸せ。
母親だって、いつもいつも頑張りつづけられるわけではないんです。子供を大切に思っていても…
上の子は今年高校生になります。私の朝帰りの意味が、もう分かる年頃です。「あんな母親にはなりたくない」と将来思うかもしれませんね。
けど、今も、私なりに一生懸命に生きています。“子供のため”そんな大義名分はないけれど。不幸だと感じさせないよう、愛情いっぱいに育てたいと思います。
それから、再婚は、今は絶対ありえませんね。下の子が成人してからなら考えますが…
映画「誰も知らない」・・・・・すごく後味が良いのか悪いのか・・・。
カンヌ映画祭に14歳で最優秀男優賞を受賞した話題作だそうです。
1988年に東京・西巣鴨で起きた実際の事件をモチーフにした作品・ひどいよ(;_;)( ;_)( ;)( )(; )(_; )(;_;)(T-T)うるうる〜。
出生届も出されていない4人の子供を置き去りに、新しい恋人と暮らすため母親が出ていくという事件でしたが・・・。
実際は物凄く悲惨な事件ですが、この事件をこんなに綺麗な映像でまとめられたことに感心しましたが、余りにも切ないです。子どもたちの演技に救われてますね。
時代劇専門チャンネルで暴れん坊将軍がバッタバッタと悪者を切り捨てるシーには何も感じないのに、たった一つの命が失われていく道筋にこんな現実が許されて良いのかという寂しさが残りました。
それが監督の意図するところなのかも知れませんが、余りにも綺麗にまとめられていて、戦中派の爺っちゃんにとってはやりきれない重い思いだけが残る映画でした。
アニメの火垂るの墓を見終わったのと同じような切なさだけが残りました。
私の身近にも、子供達より、自分の幸せを優先させていなくなった人がいたので、なおさらでした。
参考になりました。
トラックバックいただいていきます。
私にも小学1年と5年の子供がいます。映画に出てくる子供たちより遥かに恵まれています。私も主人も仕事を持っていますが、決して子供だけでの在宅にならないよう姑やシッターさんをお願いしてバトンタッチしています。物質的にも不足は無いと思います。
でも、この映画を観終わって、私は不安になりました。母親としてちゃんと子供を愛してきたのか?母親の存在を渇望するその真直ぐな思いはどの子供にも共通しているはず。私の息子と娘もそんな一途な思いで、私の帰りを待っているに違いないのに、忙しさを言い訳にして、受け止めてやれていないのでは…。帰宅するとまとわりついてくる娘を邪険に扱ったこともありました。一緒にゲームしようよと誘ってくる息子を冷たく無視したこともありました。嗚呼…なんてこと。そんな些細なことも二人の心に深い傷を与えていたかも知れないと思うと、後悔の念で涙が溢れました。だから今日はささやかな罪滅ぼし。大サービスで一緒に遊びました。
この事件の詳細、参考になりました。やっぱり現実は映画より遥かに厳しいです。今まさにこの瞬間に同じような境遇にある子供たちの恐怖が、少しでも解消するように祈っています。
とにかく、子供たちの自然な表情に感動と切なさを感じました。これが、実際にあった事件であることに驚きました。
こんなに幼い子供たちだけで生活していけるなんて、信じられません。そして、東京という大都会の真ん中で、こういった子供たちの生活に誰も気づかなかったという事実。
いろいろ考えさせられる作品でした。
私は巣鴨に住んでいた時期があったので、実際の現場が巣鴨と知って更にショックでした。
あれからしばらく経つのですが、ずっと気持ちの中に不幸な死に方をした可哀相な女の子のことが残っています。自分の子供と歳が近いせいもあります。どんなに怖かっただろう、痛かっただろう、と今でも思います。女の子が十数年前の今日、虐待を受け翌日死亡していたというこの日にまたここに来てしまいました。明日、あの子のためにお花でも供えようと思います。ここに気持ちをかけたことでなんだか救われた気がします。ありがとうございました。
なんだか支離滅裂ですが思いいれが強いのですみません。
題材となっている事件は、私が高校生の時に起きた事件です。
事件があった当時、子供が置き去りにされて何人か死んでいたということで話題になっていましたが...。
通っていた高校の近くが事件現場でしたので、「こんなところで....」と思いながらマンションを見上げた覚えがあります。
この映画の題材となった事件を知ってはいたものの、事件があまりにも身近すぎていままで見ることが出来ませんでした。
昨日、たまたまテレビで放映されているのを見て、あの事件の詳細を知りたくなり、ここにたどり着きました。
現実は映画よりもドロドロと暗いものだったと思います。このような悲しい事件が二度と起きないよう祈ります。
もう二度と大人のわがままでこういう事が起きてほしくないと同じ14歳の子供として感じました。
実は僕の大親友の子が母親のわがままでご飯もまともに作らないという家に暮らしています。僕の母はわりと面倒見がいいので遊んだときとかご飯を一緒に食べたり・・・そういう面では自分の母親がこういう人で良かったと感じます。これからもその子とは家族みたいに一緒に食卓をたのしみたいです。
いまNYに住んでますが、NYでは子供の犯罪は少なくありません。
ゲットーと呼ばれる地域では何らかの犯罪が起きてるので、こういった、置き去りケースもあるのではないかと思うけど、まさか日本でこんなことがあったなんて。。
だいぶ前にパチンコに熱中した母親が子供を車に置き去りにしたまま死亡させた事件があったけど、無責任。わがまま。からこうなってる。なんとも怖いけど、あり得る話かもしれない。
私は今アメリカに住んでいて、アメリカ人の友だちと字幕で見ました。やはりどこの国でも「母親としての責任」そして「女としての自由」は議論になるようですが、やはり母親になったからにはそっちを最優先させるのは当然のことと思います。いつまでも10代の子供じゃないんだから。
事件のまとめ、ありがとうございました。参考になりました。
この映画、子供たち、一回も泣いてないよね?
夜、スイッチを入れても電気が付かない…
コンロの火が付かない…
おそるおそる蛇口をひねってみるけどやっぱり水も出ない…
何度同じ状況になっても、ライフラインのどれかが止まると心臓が止まりそうなくらい怖かったです。こうゆうのは、なんかなかなか慣れなかったです。借金取りの方がすぐ慣れた気がするよ。
でも、どんなに怖くても、子供って、こうゆうとき案外泣かないんだよ。
ほんとに、ありのまま受け入れるの。
そうすると、涙とか不思議と出てこないんだよ。
言葉で感じると涙が出るけど、こころで感じると案外ぐっとのみこめるもんだよ。
映画見て泣いちゃった人は、きっと心よりさきに理屈が表に出てるんではないかと思ってしまった…(否定してるんではなくね)
実際どうですか?極貧な子供時代をすごした人って、この映画見て泣けましたか?そこが少し知りたい…泣けない人が多いのでは?
「どうってことないよ」
みたいな。
そうそう、「こんなのどうってことない」って思えたから、今すごくいろんなことありがたく感じるのかもしれません。
親には生んでもらっただけで感謝。乳飲み子の頃見捨てないでくれたことにも感謝。おかげでいろんなことを知って、今があります。全部無駄じゃない。
あんな境遇を知らなければ、私はもっと違った人間になってたと思うけど、今ほど幸せではなかったと思います。
で、誰か、この映画見て誰も泣いてないのに気づいたでしょー?
で、この子達はいったいあの後どうなったの???
と思い探しこのサイトにたどり着きました。
母親を責めるのではなく、まず、自分にできることを考えたい。
私には子どもが3人いますが。
遊びに来る子どもの友達を見ていると、皆、それぞれに重たい何かを抱えているのがわかります。
異国の母親を持つ子。
離婚した母と別れて暮らし、毎晩父親の帰りを暗い部屋で待つ子。
暴力によって父母が離婚し、その後、自分の暴力衝動が抑えられずに闘っている子。
その兄の暴力に怯え、震えている子。
ちゃんと目を開けば、自分のまわりだけでも、こんなに「大人の助けを必要としている子」がいるのです。
「自分は部外者」じゃない。
知らないでいる、知ることを放棄している、そのことの罪。
知っても何もしないでいることの罪。
それらの子を「うちの子が悪い影響を受けるから」と遠ざけてしまうことの罪。
この母親にだって、「助けてくれる誰か」がいたら。子どもを放置してまで愛人のところに逃げ込まずにすんだのかもしれません。
「自分は部外者」じゃない。
私たち自身の問題です。
事件の事を先に知ってしまったので、1度や2度観るだけではきっとヒネた観方をしてしまうと思ったので。
大きな問題がたくさんある事件だし、確かに映画はキレイに作られてしまってるけど、弟妹のために買い物へ行き食事を作る少年はすごい。えらい。弟妹のために我慢が出来るのもすごい。自分の子供にすらそれが出来ない大人がいる。この子たちの母親もその1人なんだけど。
これを観た後に、自分の息子に買い物を頼んで、一瞬「私が行くべきなのかも」と思ったけど、親に言いつけられてやっていることと、状況でやらざるを得ないのとではまた違うなと思いなおした。
言ってみれば、映画の少年も、親から「頼むね」と言われたまま親がいなくなったために、その依頼が永遠に続いてるわけだ。
それを守り通している少年はたくましくもあり、涙ぐましくもある。純粋な人であることがよくわかる。
子供の頃、親が不在がちでおばあちゃんと子供たちで家事をしている家庭が近所にあった。その内に母親が家を出て行き、おばあちゃんが亡くなり、子供たちが家事のほとんどをこなしていたが、兄妹のつながりがとても強く、彼らの家に行くと家の中は散らかっていたが、不思議と温かいものを感じた。
幸せな人間は、小さな幸せを見逃すものかもしれない。でも一般的に不幸せな状況におかれている人間は、小さな幸せを決して逃さず大きな幸せに変えて行く。それが人間としての豊さと言えるかもしれない。
この事件の少年少女は、きっとそんな豊かな心をもっている人間で、小さな幸せを見逃さずに育て今は大きな幸せを掴んでいる。そう信じている。
離婚、母子家庭を経験し、子供たちに不便な生活をさせていた私がこんなことを言うと言い訳がましいかもしれないが。
ですが、母は私と姉が幼い時に私たちを連れて別の男のところへ行きました。
大人がどんな内容で、家を飛び出して他の男の所へ行ったのかなんて、子供の私たちにはわかる余地もありませんでした。ただ、私たちが覚えているのは、その男の顔、一緒に布団で眠る母、それだけです。
年をとって、それがどんな事だったのかわかるようになり、許せない時期もありました。
母は、暴力を振るう人間だったので、姉も私も目の血管が切れたりするまで頭を殴られたりしたこともあります。今で言う、『児童虐待』です。
今から思うと、母も彼女なりの幸せになる道を探していたのかもしれません。その行為については許すことはできませんが、理解する事は出来ます。そして、姉も私もそんな母のようにならないように気をつけようと常々心がけているつもりです。
映画『誰も知らない』では、肉体的な暴力シーンはありませんでしたが、子供が受けた精神的な虐待や裏切りは理解できる気がします。
今でも、この世界のどこかで、こんな風に育っている子供が一人でも少なくなって、一人でも多くの幸せな子供が生まれることを祈ります。
また、細かいリサーチ、どうも有り難うございました&お疲れ様でした。
ちゃんと生きのびようとしてる子供達。
大人なんかチッポケというくらいしっかりしてる・・・
でもやはり子供には大きすぎる問題なのだろう
僕はいま14。当時の事件の子と同じ歳!
やっぱり弟、妹の前にやはり自分!という考えが
14歳・・・長男はきっと辛かったんだろう・・・
学校にも行けない、弟、妹を365日家事と共に
面倒見なくてはならない。そして孤独を感じてたんだ
と思う。いまどうしてるかしらないけど・・・
幸せであってほしい!!!!
「誰も知らない」を、このたび観ました。
ブログにレビュー記事を書くにあたって、
こちらの記事を参考にさせていただき、
記事中にリンクも貼らせていただきました。
TBもさせていただきましたので、
よろしくお願いします◎
私には今二人の子持ちの彼女がいます。この映画を見てまず思った事は今の自分、今までの子供達に対する接し方です。
子供達は私に対して実の父親のように慕ってくれ、私自身もそれに応えようと私なりに必死に努力しているつもりです。
来年彼女と結婚する予定なんですが、これから「親」になるにあたりこの映画で自分にかかる重大な責任を感じました。しかしそれは重荷ではなく改めて覚悟を決めさせてくれるものでした。
これから築く家庭を私は大事にし、三人を愛して行こうと思います。
・・・この映画では、柳樂くんにとっての母親像。
これを観て、家庭も宗教団体になりうるんだな、と思った。
逃げ方を知らないと生きていけないということを、改めて認識させられた。
逃げちゃいたい僕と、逃げたくない僕。
こんな人生を送る人に対する哀れみと優越感。
いろいろ思うところはあったけど、下を見ないと上を向けない自分がいるってことだけは、はっきりとわかった。
残酷すぎると思うし。正直信じ切れない部分も多くある。僕は実際の事件のことを知ってからさらにシヨック
を受けた!父親は無責任すぎる!!でもそんな無責任の男に体を許してしまう女(母親)はもっと馬鹿で無責任だと思う。
誰も知らない子供置き去り事件は誰もが知らなくてはならない事件なのかもしれない。
事件当時の子供達・・・
苦労して大変だったね・・・。お兄ちゃんも苦しかったね。365日家事、育児は大変だよね。苦労した14年はきっといつか報われると信じましょう!!
そして姉妹の皆、よく絶えてきたね・・・
幸せになっていてね。
そして、一番したの妹さん
心より冥福をお祈りします。
今更ながらこの映画を観ました。
感想をブログに書いています。
事件をとても詳しく書いてらっしゃるので、リンクをはらせていただきました。
実際の事件はとても悲惨ですね。驚いたと同時に胸が詰まりました。
私も被虐待児ですが、正直不自由だけはしませんでした。 ただ精神的と少しの折檻で。 ただ私の母がかなり重度の虐待を受けていたので、もうこうなったのも仕方のないことだとは思いますが・・・。
この映画は正直きれいに書きすぎていると思います。もっともっと社会模範的な家庭とのギャップなど前面に押し出して欲しかった。
この映画は、母親だけに責任を押し付けすぎていたとも、勝手な見解ですが思いましたし。
こういった映画を、もっともっと作っていって欲しい限りです。
きっと虐待を体験していない人からみれば、一時の不でしかないかもしれませんが。。。
本当にこの世から虐待が消えてくれるのを祈る限りです。
生まれた時から背負うものが多すぎるでしょう
私も被虐待児ですが、正直不自由だけはしませんでした。 ただ精神的と少しの折檻で。 ただ私の母がかなり重度の虐待を受けていたので、もうこうなったのも仕方のないことだとは思いますが・・・。
この映画は正直きれいに書きすぎていると思います。もっともっと社会模範的な家庭とのギャップなど前面に押し出して欲しかった。
この映画は、母親だけに責任を押し付けすぎていたとも、勝手な見解ですが思いましたし。
こういった映画を、もっともっと作っていって欲しい限りです。
きっと虐待を体験していない人からみれば、一時の不でしかないかもしれませんが。。。
本当にこの世から虐待が消えてくれるのを祈る限りです。
生まれた時から背負うものが多すぎるでしょう
でもこの映画を見たことで、そういった不安が薄れ、もしも自分に子供が出来たら心から愛しどんなことがあっても育てていこうという決意のようなものが心に浮かびました。
映画では実際に描かれていなくとも、どれほど子供達が苦労し悲惨な生活を送っていたかは十分に伝わってきたし、考えさせられ、自分はこんな思いを自分から生まれた、他の何にも変えられない子供に、絶対にさせてはいけないと、心から思いました。
「子どもだけで数ヶ月も暮らしていた」
記事や文章からだと、小さい子もいるのにどうやって子どもだけで過ごしていたんだ?と、まるで非日常のドラマのように受け止めてました。
ですが映画の淡々とした描写が子どもたちの生きるための知恵や工夫を写しとり、ガスや水が止められた中でもなんとか毎日を送れてちゃっている、なにも特別なことじゃない、現実でもふとしたひょうしにゆうに起こりうる、と思いました。
誰も頼れる大人がいない中で日々母親が帰ってくる時を待ちわびて、でもずっと帰ってこなくて。
特に長男の、妹たちの面倒を見ないといけない日常があるけれど、子どもとして仲間と遊びたいし大好きな野球もやりたい、しかしそういう普通の中学生の生活が、彼にとっては非現実的なものになってしまっている、それがとてもよく伝わり切なくなりました。
映画でも実際の事件でも、子どもたちの窮状を知っていた大人たちはいたのですが、誰も通報しなかった。
敗れたTシャツやボサボサ頭でも、子どもたちが実際たくましく毎日を乗り越えているところを見て「まだ大丈夫だ」と思ったのかもしれない。
見る人が見たら、一発でその裏の生活を見抜けるのに。
都心の生活では、皆が自分の生活に精一杯で、周りへ心を配る余裕がないのだろうと思う。
たくさんの人が行き交う中では、他の人が何をしているかなんて考えていたらきりがない。
ましてやそれらに関わろうなんて、エネルギーがいくらあっても足りない。
でもせめて、子どもたちだけは周りの大人たちが声をかけてその成長を見守る、そんな心を皆とりもどそうよ、と強く思いました。
「誰も知らない」を観たら
実際に起こった事件が
モチーフになっていると知って
ショックを受けてしまいました。
そして、その事実を知りたくて
検索していたらここへたどりつきました。
こんな事件、二度と起こってほしくないですね。
主人公の少年が妹を殺してしまったとは知りませんでした。殺す話を映画に取り入れていたつぃたら、主人公役の子役の少年を 無責任の最低首相小泉純一郎が 表彰しよう などとアホウなことを言ったでしょうかね。こういう母親や子供を創り出したのが自分を含めた歴代自民党の首相だということの自覚がないでしょうから。
私も小さい子どもが二人いるので、
子どもが自分の誕生日には母親が必ず帰ってくると信じて駅で待ちぼうけをくってるシーン、大好きな「アポロ」が無くなるまで待ち続けてるーーすごく切なかった。子どもが死んでしまうところも。妹がいなくなった後にアキラが飛行機を見て妹のことを思い出すところも。
他のシーンは大人の目で見ればひどい生活だけど、子ども達にとってみればなんてことないことのように描かれていました。
むしろ「どんな生活からでも子どもは楽しみを見つけ出せる」という強さが感じられました。
私も実際の事件が気になった訳ですが、もし自分が近くのコンビニの店員だったらどんなことがしてあげられただろうと思います。「児童養護施設に入って学校に行く」ことが将来を考えれば良策なのでしょうが、通報すれば母親は逮捕され、兄妹は一緒に過ごせるかどうか分かりません。子ども達としては「みんな一緒に暮らす」のが一番の理想だったでしょうから。
母親が帰ってくる可能性があるかどうか・・・それは近所の人では判断できませんし、映画での描写同様通報はためらうでしょうね。
もちろんもっと早くだれかが通報していれば幼い妹の命は救えたわけですが。
とにかくこの映画、台詞もものすごく少ないのに、これだけ子ども達の気持ちが伝わってくるのはすごいと思いました。
というかもともと子どもの気持ちは言葉では分かりませんけどね。
それと母親が一番の悪者にされていますが、父親はどうして責任を問われないんでしょうか?誰の子だと証明できないから?
身に覚えのある男達はこの事件をどうとらえたんでしょう。
分からないのをいいことに知らないふりなんでしょうね。
そのような男性が一番無責任であり、事件の発端になっていると思います。
最後になりましたが情報ありがとうございました。
今も凄く悲しくて、たまらないですね。この世にもう二度と責任というものを弁えていない者は子供を産まないでほしいです。。。 そして今この世の母親、父親たちは自分がちゃんと親の役割を果たしているのか省みてほしいですね。。。 子供は親の関心と愛情なくては生きていけない存在なのです。。。 私の親も共働きで、私が親の愛情が必要だと思っていた思春期に、忙しかった親の感心と愛情から飢えていた頃を思い出させるきっかけになりました。(だからといって親を恨んではいません)
いい映画を作ってくださった是枝監督と柳楽優弥君に感謝しています。
*ちなみに私は外人なのでおそらく表現がところどころ間違ったとこがあると思います。大目に見てください〜*
『幸せ』それは他人を犠牲にすることではない。犠牲にしてしまえば、それは幸せではなくただのわがままだ。「私は幸せになっちゃいけないの?」と言う台詞があったが正直に思ったことを言うと、それはただのわがままの言い訳としか感じられない。ここには母親になっている人も居て申し訳ない…が、子どもがどんなに邪魔でも親は子どもを幸せにする義務がある。義務の放棄は許されることではないと思う。
今、僕は人間の形をしたわがままロボットが多いように感じられる。心をなくした人間。それは僕も心をなくした人間の一人だが、もっと人間は人間に関心を持つべきだ。そうすれば、このような事件は起こらなかったはずだ。
少し乱れてしまったが、今、世界は見て見ぬフリをするようになった。僕は不注意で人を一人死なせてしまっている。しかし、世間ではそれを見て見ぬフリをしてしまっている。
誰も知らない。それは言い換えると、誰も知ろうとしていない。のように感じられる。他人の干渉を断ち切って見ぬフリをするのだ。
以前、児童虐待の小論文を読んだことがある。その小論文には、「虐待を受けた子どもは、虐待をまた、自分の子どもにする」ということが書かれてあった。僕は嘘だと思いながらも、自分が怖くなった。絶対にしない。そう思いたいのだが、恐ろしいことに僕は頭に血が上ると虐待交じりのことが頭にすぐによぎるのだ。虐待は虐待を生む。このことを経験者には頭に留めて頂きたい。絶対にないと僕は信じている。
かわいそう。それだけで終わってはいけないのだ。無責任すぎる。そんな人間は悪の味方をしているのと同じだ。二度とこのようなことが繰り返されてはいけないのだ。だから、将来僕らが創っていく未来には絶対に起こり得る環境を全てどうにかしていかなければならないと思う。
僕はこの映画が大好きだ。だからこそ、二度とこのような映画が造られないようにしなければならない。是枝監督は僕たちに未来を託してこの映画を造ろうと決心したのかもしれない。僕らはその期待に応えないといけない。
さぁ生きていこう。不幸がない世界に…
生きてきて限りない青空に見つめられたから
きみたちは生きる
生きてきて手をつなぐことを覚えたから
きみたちは寄り添う
生きてきて失うことを知ったから
それでも明日はあると知ったから
きみたちは誰も知らない自分を生きる
谷川俊太郎
TBさせていただきました。よろしくお願いします。
気にはなっていたものの実際あった事件をモチーフとのことで何だか試されているような気がして手が出ませんでした。
実際の事件もここで始めて知りました。
皆さんのコメントを読ませていただきましが「知らない」
人も多いようでした。
近隣との接触が少ない集合住宅(主にアパート、マンション)ではこのような事件があっても、変だと思ったが「知らなかった」と返事が返ってきそうな現代の社会性。
他人との繋がりが難しくなっているのではないのでしょうか。
私は今10世帯のアパートの1室に住んでいますがどこに誰が住んでるかわからないし顔も合わせることもほぼ無いので、もし何かあったとしても「知らなかった」となるでしょう。
哀しいことですが、この映画「誰も知らない」は遠いようで実は身近におこりうる事件なのかもしれない。。
小学校1年の時、毎日幼稚園の妹を迎えにいくのが嫌だったのを思い出します。放課後は友達と遊びたかった、でもそれができませんでした。友達と遊んでいて妹を迎えに行くのが遅れたときに、妹の幼稚園の先生に叱られました。妹は泣き止まなかったらしい。その帰り道に泣き止まない妹に辛くあたったのを覚えています。通りがかりの大人に止められ、「悪い姉ちゃん」と叱られました。嫌な思い出です。
とにかくその頃の気持ちがよみがえってきたような錯覚を受けました。
映画の話に戻ります。
皆様の書かれたコメントに目を通しますと母親への責任を問う声が殆どで、そういう事こそがこのストーリーの裏にある社会問題の一つではないのかと思いました。子供は父親が面倒を見てもいいのです。何故母親だけが責められているのでしょうか?何故母親だけ逮捕されたのでしょうか?映画の中ですと父親は自分の子供の境遇を知っているかのようでした。子供の面倒もみない、経済的支援もなし、それを全て一人の女性に託すのは間違っているのではないでしょうか。結婚をしていない、はずみでできた子供だとしても、父親にも責任があるはずです。DNAで父親を探し出し、無責任という理由で父親も罰する事は間違いでしょうか?
この母親に限らず、シングルマザーになり毎日の生活に追われ子供の面倒どころではない女性は多く存在すると思います。このような女性達がもっとオープンに抱えている問題、悩みを相談したり、助けを求める事ができるような社会施設や社会環境が日本にはあるのでしょうか?この事件は1988年に起きた事件のようですが、今の日本はもう少しは変わっているのでしょうか?
こんな事件が2度と起きなければいいと思っていましたが、事件から20年あまり過ぎた今でも同じような事件が後をたちません。
つい先日苫小牧で若い母親が幼い兄弟をアパートに放置し長男は生ごみを漁り命を繋ぎ、三男は餓死、次男は以前に不慮の事故で亡くなっているという事件が起きました。
母親は育児が煩わしくなったと愛人宅に入り浸っていたとの事です。
この事件でも、近所の人は一室の異変に気付いていたし、愛人も育児放棄について知っていたとの事。
この事件に至っては、母親は市に育児が出来ない事を相談もしていたのに取り合ってもらえなかったらしい。
責任感の欠如した母親が罪を問われるのは当然かと思うが、それ以上に事実を知りながらこの母を「放置」した世間の責任は重いのではないかと思いました。
話が映画から逸れて申し訳ありません。
このような事件に遭ってしまった子供たちが幸せになってくれることを心から願います。
記憶の片隅に追いやられていた事件。
今でもたまに通うコンビニのあるマンションで起きた事件が
「誰も知らない」の原案であることを最近知りました。
あれから私も母親になり、
子供を置き去りにする母親の気持ちなど
全く理解できませんが
社会がもう少し自分以外の人間に無関心でなかったなら
防げていた事件だったかもしれないですね。
案の定、涙が止まりませんでした。30過ぎの男が号泣。1人で観てて良かった…。
映画はこのくらい美化してくれて良かったと思います。事件の辛さや社会の残酷さだけではなく、子供達の明るく純真な輝きを見る事が出来たから。
最後に…紗希の存在のおかげで、とても救われました。願わくば、世の成人全てがこの映画を観てくれたらと思いました。
私の暮らしている米国では裁判所を通して、父親からも正当な育児費、教育費を取ることができます。母親は罰をくらったけど、父親達も生まれたときからさかのぼって、子供達にお金を払う義務があると思いますが?現在の日本の文化、法律では無理なのでしょうか?
妹さんのご冥福と、兄弟たちが元気に暮らしていることを祈ります。がんばってね。
YOU演じる母親は私の見る限り子供達に対して愛情を持って接している。
経済的にも時間的にも充分満たされているはずの親ですら、子供の食事を自分の都合でレトルトで済ませ、自分のストレスを言葉の暴力でもって子供に向けているのが現代日本の実状である。映画の母親のように極端ではなくとも、育児放棄は多かれ少なかれどこの家庭でも起こっているのだ。
あえて何を問題視しているかと言えば、タイトルにあるとおり、誰も知らない=全員が気づかなかった、手を打たなかったことこそが罪なのだ。
この映画を見て感じるべき事は、誰が悪いかではない、私たちが全員が何をすべきか、何ができるかである。
皆さんのコメントを読んでいて感じたことは、映画の状況を他人事と思ってほしくないということです。
誰かを悪者に(この映画の場合は母親)して物事の解決を図るやり方は、ある意味とても身勝手で、実際は何の解決にもならないということを感じて欲しいと思いました。
近所に住んでいなくとも、実際に接点がなくとも、単にすれ違っただけでも、子供達に、人間に、物事にもっと注意を向けて欲しい。
子供達は与えられた環境に対して「誰が悪い」とは考えない、全てを受け入れ乗り越えるのみです。そんな健気な子ども達を、私たち全員が置き去りにしてはいけない、見過ごしてはいけないと思いました。
長い。苦しい。重い。さして盛り上がりもなく、淡々と過ぎていく時間に「だから何?」と聞き流してしまいそうなラスト。
多分こういった感想全てが監督の思惑通りなのだろう。
傍観しているだけの辛さ、早く誰か気づいてくれと祈るような気持ち、それでも毎日朝が来て時間が過ぎる。ちょっと気になったけど、ま、いっかと通り過ぎてしまいそうな映画。自分こそが加害者だと気づかない無自覚な観客への警告なのだ。
出番待ちをしている間に、みんなでおやつのおにぎりを食べていた。
そしたら汚れた服を着た少年が、リヤカーに小さい子供を乗せ、「僕たちおにぎり貰ってないんですけど…」と言ってきた。
近くにいた近所のおばさんは、汚いものを見るように無視した。
子供ながらに心が痛んだ記憶がある。
時々そのことを思い出していた。
あの子達どうなったのかな?
と。
そしたら、この映画。
実際に起きた事件だと聞いて、
「あの子達のことだ!!」と思った。
でも、実際は東京で起きたことだった。
こんなことってほとんどないことだと思っていた。
似たような経験をされた方があまりにも沢山いて、
30年も生きてきて、
私は本当に何も知らないんだなと思った。
学校へ行っているのかいないのかもわからない。
ご飯を食べているのかいないのかもわからない。
たとえ、そんな薄汚れた少年を時折見かけるとしても、
声を掛け、何かをしてあげられる大人が、いったいどれくらいいるだろうか。
無責任な外野を責める事は簡単だが、いざ、自分がその外野の1人になった時、おそらく同じように責められる立場になる人がほとんどではないだろうか。
思う事はたくさんあるけれど、
一つだけこの場をお借りして。
亡くなられたお子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
この映画の中に母親の責任を糾弾する余地などありません。
それは別問題ですし、映画の中にそれはありません。
自分がこの母親のようにならないと絶対言えるのか?
自分が社会から阻害されていると感じた時に、果たして自分自身以外のことを考えることができる人間であるのか?
正直、自信をもって自分がそんな人間だと言えません。
私は昨年、子供を身ごもりましたが妊娠が発覚する直前に、その子の父親である男に捨てられました。
その時は、絶望の淵に追い込まれた気がしました。
世界に自分を愛してくれる人が誰もいないと感じました。
社会全体から阻害されているような、いいようのない孤独です。
妊娠が発覚した段階で、その子の心臓は私のお腹の中で止まっていましたが、もしその子が仮に息づいていたらと考えると、私も、この事件を引き起こした母親になってしまっていたかもしれない。
私の子供が産まれてくることはありませんでしたが、それは不幸ではなく幸せなことだったのでしょうか。
子供にとっても私にとっても。
産まれてくるはずの命が消えていることが幸せという現実は、なんとやりきれないことなのでしょう。
私は生涯この気持ちに苛まされていくのだということを、この映画を見てより強く感じてしまいました。
だからやりきれないです。
何の予備知識もなく、ただ日本の映画をやっているよ。と、言われて見に行きました。
最初は、怒りでもう一杯でした。スイスでは休憩が途中に入るんですが、その休憩で立ち上がった時に、「こんなのありえない。信じられない。」と、日本人としてなんだかやり場のない怒りを感じていました。
その後、全部見終わったとき、「子供の生きる力ってすごいんだなあ。」と、感じました。
その後、置き去り事件のことを知りました。
ひどい話だなあ。と、思ったものです。
最近、女性について、母親について、いろいろ思うことがあり、この映画を思い出しました。
コメントの中には母親の「私は幸せになっちゃいけないの?」という台詞について書いていらっしゃる方がありますね。
この、「私は幸せになっちゃいけないの?」という言葉には引っかかった方が多いかと思います。
このケースは特異な事情が重なったと思いますが、保護者遺棄という点を考慮から外すと、女性の生き方として、母子家庭の母親がどういう生き方をするべきかという日本における非常に固定的、古典的な現状の中でこの台詞の大きな役割をになっていると思います。
望むと望まざるを問わず、母子家庭になった場合、女性の生きる道はただひとつ。子供を育てることを最優先に、それだけをひたすら求め、かつ求められる。これが日本の現状ではないですか?
だから、あの台詞に多くの人がアレルギー反応を起こすのだと思います。わたしも全くそうでした。
しかし、母親がいる以上、父親だっているのです。生物学上の。
その父親は知らん振りを決め込めるというのが21世紀の日本で未だにまかり通っているのは、おかしいんじゃないですか。
その土壌は国民全体の意識だと思うのです。
子供は両性があって初めて誕生するのであって、特に男性にその自覚がなさすぎる。子供は母親の物。という感じが強すぎる。
そして、ずっとよく考えてくると、どうしたって人間の社会にははみ出してしまう人がいるのが現実で、そうしたケースをどう補うかが社会の力なんだと思いませんか。
今大騒ぎの地球の環境問題だって、「貧乏な国はもっと努力せい!」とか、「中国が日本の生活レベルを獲得したら地球が破滅するから、向上させない方がいい。」なんて決議は(ありがたいことに)絶対出ないでしょう。
そういういろんな状態を、どうやって補い合いながらみんなが幸せになっていかれるかってこと。それを知恵を絞っているんでしょう。
だから、私が言いたいのは、この事件のように追い詰められる人が出ないように、それを支えるシステムが必要だってこと。
それがあったら、あのお母さんや、その連れ合いだってあんなむごいことをせずに済んだはず。
お母さんが!!と思ったあなた。お母さんだけじゃない。彼女とセックスした男性はもうその時点で共犯者です。その男性は全く糾弾されないのは本末転倒。
そうした無責任社会をどこかで断ち切らない限り、こういうことはいつでも起きると思う。社会的・法的な整備を強く望みます。
悲しいです。
西欧に住む自分ではあるが、社会保障のある程度ゆき届いているスイスで、母子家庭の中を見たことがある。家に入るとすさんだ雰囲気、かたづいていない台所、母親が働いているために子供たちだけが夕方家の中でごはん食べているらしい、とかそういう光景。
母子家庭とかは社会保障とかが充実すれば解決するかというと、そうでもないらしい。
子供たちの心の空洞さ、だれからも無視されているすさんだ雰囲気。
そういう子供たちをほおっておくまわりの大人社会。
自分のことは自分で片付けろよ、という個人主義の西欧社会。
でも、日本もそういう感じになっているみたいなんだろうな、と思う。
誰も知らない、誰も見たくない、だれも通り過ぎるだけで見て見ぬ振りする、そういう光景が本当はいっぱいあるんだろう。
実話をベースにしているとの冒頭のテロップが気になり、『誰も知らない』を語句検索して、ここへ辿りつきました。
「あ」さんが既に言及されていますけど、見捨てられた子どもにとって、母親だけでなく父親たちもまた親なのであって、(映画の中で登場する2人の)父親たちの身勝手さ無責任さを不問にする現代の社会通念や社会制度こそ問われる必要があるのではないでしょうか。
いわゆる女性問題もさることながら、個々人の意識や行動に内在する男性問題の根は深く問題視さえされえない、それほど男性問題は根強い、ということなのでしょう。
映像美は、その後の子どもたちの幸せを祈り願う是枝監督のセンスに想えました。
性暴力やDVなどの被害体験を生き抜いてこられた藤木美奈子さんが、現在進行形で<生き直し>を試みられ「どんな人生も良いもんだ」とHPなどで仰っているように、実話の当事者の子どもたちも、このような心境で生き抜いているような気もします。
の題名には、こんな意味があるんです
この子供たちは、もしかしたら私たちあなた達のすぐ横のひとだったのかもしれない・・・。
すぐ横に住んでいるにも関わらず誰も気ずかず、・・・今はこんなご時世なんだ。
というが込められているそうです
色々と感じさせられます・・・・・・・。
お金とか生活よりも家族でいたい
なんだか動物的な本能を感じました
幸せ
ってなんなんでしょう
とても考えさせられました
お金、愛情、友情、家族、人とのつながり
いちがいにコレとは言えないと感じました
そしてラストの方の妹の死に対する子どもの反応がリアルでした
実際に子どもが死というものを目の前にしたとき
そこに大人やメディアが介在しないとき
子どもたちの反応は意外にあっけないものなのかもしれませんね
手を触ったら冷たくて気持ち悪かった
すごく素直な反応だと思いました
正直、何も答えが出ません。
本当の事件、そして、みなさんのコメントを読ませて頂き、さらに分からなくなりました。
この映画を見るまでは、一人の母として、こうあるべきだ、こうありたいという、母親像がありました。
私の周りには、同じような境遇に育った人も居ます。
そして、この事件の母親の様になっていってしまうのではないかと、心配になってしまう人も居ます。
自分も、親としての自分を不安に思い、その度に、何とか解決をしたつもりでいました。
けれど、この映画を見て、すべての思いが白紙に戻ったような気がします。
今は、何も分からないし、訳の分からないことを、つらつらと書いてしまいましたが、私はこの映画を見ることが出来て、本当によかったと思っています。
そして、
どうしていいか、わかりません。
こうしてるいまも、私以外の何億人もの生活があって進んでいく。
はかない。
例える言葉が、みつからない。
ただ、すべての人が、ものが、できるだけ、しあわせであって欲しい、とおもう。
ただ私自身アジアなどの国を旅している途中に、この映画と同じような光景を目にしました。
みなさんは実際に何をしてあげられますか??
私は何もしてあげられなかったです。
それしかいえません
私は長男と同じ中学生です。
なんで、誰も気づかなかったのでしょう?
とても不思議で悲しいです。
母親は何を考えているのでしょうか?
幸せだなぁ、人生って楽しいなぁって思える時があればいいけど…
それが見終わった時に思った第一の感想でした
私は一児の母ですが、、同じ間違いをおこさないか心配になりました。
まだ、私は、正気で常識ある人間で、子供を愛しているけれど、、
時々自分の中のバランスが壊れそうになる。
毎日の生活から、、逃げ出したくなる。
たいていは、数時間、外の空気を吸えばなおるのだけれど、
もし気分がなおらなかったら、、、そう考えると怖い。
しっかりしていたい、、子供のためにも、自分のためにも。
そのときの感想は、やるせない、悲しい、あり得ない、でした。
私はこんな境遇の人がいるなんてあり得ないと思うような家庭で生活していて、母親も父親も愛情いっぱいに育ててくれて、今はそのことにとても感謝しています。
しかし、それが幸せだと感じるのはこういう映画を見たからです。それが無かったら「これが普通のこと」だと感じて生活していたかもしれません。
はたから見れば悲惨な状況でも、子供たちにとっては「ごく普通のこと」
ものの見方って人それぞれだし、何が本当の幸せなのかって自分自身のことでも分かりません。
子供ならなおのことです。
子供たちに大人は何が出来るのだろうか?
コンビニ店員の賞味期限の切れた弁当をあげる場面が心に残っています。
出来ることってそれぐらいなのかもしれないな。
公園で水を飲む子供たちの姿はキラキラして力強かったです。
少なくともこの映画を見て、以前の私と気持ちは大きく変わっています。無関心は怖い。
この映画をたくさんの人に見てもらいたい。そしてちょっとでも気持ちが変われば、少しずつ社会も変わっていくと思います。変わっていくと信じたい。
と、ここで終わろうと思ったのですが思いだしたことがあったので書かせていただきます。
中学生のころにちょっと違うなと思った女の子がいました。
虐待を受けていたような感じではないのですが、家を教えてくれなくて、家に遊びに行った子から聞いた話では行ったらおじさん?みたいな方に来るなと言われ帰ってきた、とのことでした。
その子には兄もいて部活もやっていたので、ただ家庭が複雑なだけでそれを詳しく言いたくなかったのかもしれませんが、私も無関心でいたのは事実です。
無関心というより、子供ながらに「聞いちゃいけないこと」「家の事情」と認識していました。
でもこれも無関心に入るのかもしれないですね。実際この子のことを今日このブログを観るまで思い出さなかったですから。
どうしようもない親が増えればこのような事件が増える
全ては親次第だと思います
現在この子供達が幸せに暮らしている事を願います
でも事件のことは気になっていて、調べたらここにたどり着きました。そしていろんな意見を読みながら、本当にいろんなことを考えさせてもらえました。
どうもありがとうございます。
私は主人公たちのような家庭に育ったわけじゃないけれど、両親は精神的に私に関心がありませんでした。
物質的に不自由を感じなかったれど、精神的には無視されていて、本当にひとりぼっちに感じて、自分がこの世に存在している意味が分からなかった。
周りからは「立派な家庭」と思われていたし、周りが「立派なご両親でいいわね」というから、自分ですら異常だと気づけなかった。心は苦しかったけれど、世の中にはもっと大変な思いをしている人がいるから、そんなことで苦しんじゃダメだしワガママ、と思っていました(し、学校の先生とか、大人に直接そう言われたこともあります)。
大人になって、それも虐待のひとつの形態だと学んだ時はショックでした。
父親はすでに他界して、母親は今でも大人になりきれていない子どもみたいです。ちなみに父も母も、そんなことを想像できないほど、世間的には見栄えのすごくいい職業です。
自分の体験を通じて、人間にいちばん大切なのは、世間からの見栄えじゃなくて、その人の中に入っているあたたかな心だって、よく分かった。
今でも、心の深いところで人が苦手です。でも、その後いろいろな人に出会って、人は自分が想像しているよりもずっと、周りのことに関心があるんだと気づけてよかった。逆にそれを知らなかったことをショックに感じるぐらい、世の中は案外あたたかいんだと感じています。だから、もっともっと人を好きになりたいと思う。今日このページを発見して、読ませていただいて、ますますそう感じました。
ありがとうございました。
公開前当時から話題になっていて気にはなっていたものの何となく観るのが怖くて避けておりました。
正直、観ていることが苦痛で、無責任な親、大人に腹が立ちました。
自分のことばかり考えている人間、自分さえよければ他人のことには無関心であることで起きる現実。
映画の中で、学校へ行きたがる子供を理不尽な理由で拒否する母親。
実際、子供の頃学校で洗濯していない汚れたままの体操着を着ていじめられていた子を思い出しました。
今思えば少なからず同じような環境の子が近くにいたのかも知れないと思うと心が痛みます。
誰も知らない のではなく 誰も知ろうとはしない
誰も知りたくない ことが 問題なのかも知れません。少なくともこの映画、実際に起きたこの事実を忘れないようにしたいと思います
BSの放送でこの映画を観ました。
観たのは2度目で、初めて観たときは中2でした。長男と同じ年齢です。
わたしは勉強も文を書くこともとても苦手ですが、どうしても伝えたいことがあったのでここに書きます。
コメントを書いている方たちは、怒りがおさまらない、や、悲しすぎるなどと書いていますが、もし自分が身近な人にこういう兄弟を見つけたとしたら、皆さんは彼らのために何をしてあげますか?
映画で加瀬亮さんが演じていたコンビニ店員のように、毎日あまりもののお弁当を、優しさのつもりであげますか?
映画にでてきた年上の女の子のように、誰にも、この兄弟はこのままではいけないということを伝えずに、一緒に生活をしてあげますか?
そして、それは彼らを助けていることになっているのでしょうか。彼らにとって正しいことでしょうか。
助けているつもりで、優しさのつもりで、心のどこかで見て見ぬフリをしてる。
きっと、コメントを書いている皆さん(勿論私自身も)も、こういう兄弟を見つけたとしても、本当の意味での救いの手を差し伸べてやることはできない。
警察への通報をしたとしても、その兄弟は離れ離れになる!と悲しむでしょう。だからといって、一緒に住まわせておくことが正しい訳がない。
私には、映画の中に自分が居たとしたら、何をしてやることが一番いいのか分かりません。誰にも答えはだせないと想います。
前の方のコメントにあったように、きっと、私たちも、「知らない」のではなく「知ろうとしない」。
この映画を2度も観たのに、もう高校生だというのに、大人なのに、まだ心のなかで気持ちはまとまりません。
今の私に出来る事といえば、当たり前の生活を当たり前だと思わない。という事くらいです。ありがちなセリフだけど、それしか出来ないです。だって、私たち学生はいつも満足なはずの生活に対して不平不満ばかりだから。学校がめんどくさいだとか言ったり、平気で死ねとか言ったり、大切にしてくれてる親を傷付けたり、障害や、貧しい国の人、恵まれない人を偏見の目で見たり。
当たり前が当たり前ではないことを、毎日心に留めて生きることしか、今の私にはできません。
みんな大人な意見を書いているのに、駄文ですみません。だけど、言いたかったことが少しでも伝わっでくれたら嬉しいです。
誰だって、そんな生活はひどい、たすけてあげたいと思うのに、素直に行動するにはあまりにそれぞれの家庭が閉じこもりすぎているのではないかと感じます。
もっとラフに助け合える環境があれば…と切に願います。
今まで、虐待とか置き去りとか。
ニュース、テレビ、マンガなどにひどい事件として描かれていますが、母親と呼ばれる存在になった今、どれも見るに耐えません。
帰らない人を待つことが
他の大人を頼れないことが
どれだけ辛いかなんて大人でもそうなのに、子供は…。
自分は泥水を啜ってでも子供に食べさせる。
そんな母親ばかりではないことは、わかっているけど…。
すみません、支離滅裂になりました。
とにかく、ショックで辛いです。
子供が学校から帰ってきたら、ぎゅーっと抱き締めてやりたいです。
こんな事が本当に起こったのか?
うそであってほしい。胸が張り裂ける思いでした。
親の身勝手な約束なのにそれを忠実に守っていた子供達。
母親の身勝手な行動が子供を犯罪にまで追い詰めた。
子供を産んでも母としてよりも女としての自分を大切にする人間が増えている世の中。
子供達がこれ以上傷つきませんように。
母親としての責任、自覚も問われるけれど
周りの人達=私達 も見てみぬふりをしませんように。
見終わってなぜか興味本位で手に取ったあの時の自分を後悔しました。私は今も昔も幸せすぎてる。なんと言っていいかわからないけど、私は同じ日本でこんな暮らしをしている子が現にいるんだということを今の今まで知らなかった、というか知ったつもりになっていた。
最初この母親、父親の行動が信じられなかった。こんな勝手な親がいるものか!子供達への哀れみと親への怒りを感じて涙が出ました。偏に私にはこんな経験がないからなのか…世の中にはこんな事件山ほどあるという事実をここにきて思い知らされました。ニュースで聞く事件はものすごく断片的な事実を並べたものなのに私はそれだけを見てこういった社会問題に対して知ったつもりになっていたんだと気付かされたんです。
映画を観てもしかしたらあの子たち自身はあれが普通の生活でおかしくはないのかもしれない、兄弟一緒に暮らせたらそれでいいかもしれないと感じました。
けれど、ほんとは感じているはずの周りの大人が、見逃すのはやっぱり間違っていると思うんです。
どんな子供も大人の支えなしでは生きて行けないのではないでしょうか。親の支えじゃなくてもいいんです。周りの大人だっていいんです。
支えなんかなくてもいざとなれば本能で生きられるでしょうか?私はこんな便利な時代でさえ無理だと思います。最悪の事態に至る可能性のほうが格段に大きい。あんなふうにひとりの命が亡くなっていくくらいなら、兄弟がバラバラになるほうが全然ましだと思います。兄弟がバラバラになるのがかわいそうだと感じ何もしてあげないのは優しさではない。何か起こってからでは遅い。他人に干渉するのはよくないのかもしれないですね。でも人を助けられるのは周りの人間です。私は勇気を持って通報します。通報で事態が変わるとは限りません。また同じ状況に戻ってしまうかもしれない。けれど、人の命が懸かっている、そう考えたら拒んではいられないと思う…すごく極端な意見かも知れませんが、私は映画を観てそう感じました。
死んでしまった一番下の女の子の年齢と同じです。
見終わったあと非常に嫌な気分になりました。
マイナスの感情に押しつぶされそうになってしまったからです。
たぶん私のすぐちかくに、そのような家庭が存在していても、「おかしいな」と思うだけで声もかけないであろう自分。
そして、仕事中「あそぼう」とちょっかいをだしてくる息子を煩わしく思ってしまう自分。
私の家庭も、ひょっとしてこの映画のようになってしまうのではないかという不安。
この映画を見てから、ふいに彼らの生活を思い出しては、考えさせられる日々です。
本当に彼らのような立場になってしまった時、彼らのような子供達を見かけたとき、自分ならどう行動するか。きれいごとだけでは済まされません。
一番ちいさかった妹さんのご冥福をお祈りするとともに、3人の子供達は現在立派に成人していると思いますが、彼らが幸せな生活を送ってくれていることを願います。
そして自分の息子にはこのような思いは絶対にさせない、と強く思うこと。
今の私にはそれしかできません。
なぜだか全く分かりませんでしたが、手にとってみた瞬間、観なければ!という気持ちが胸のあたりにもやもやとくっついて離れませんでした。
今まで2、3本選ぶのに毎回1時間ほどかけていた私にはありえないことで自分自身驚きました。
これを観る前に、アメリカのヒューマン物を観て大泣きしたことも関係ないとは言えないかもしれませんが、
異常なほどに涙腺の緩い私が、どうしたことか、一切涙が流れませんでした。
私は学生です。下に弟と妹が3人います。長女です。
自分でも自分の感情が分からなかったので、
あまり多くを語りたくはありませんが、
私は、長男になってしまっていたような気がします。
これまでの心的境遇があまりにも似ていて、映画を観た限りですから何とも言えませんが、少なくとも”福島 明”とは。
これからもう一回観ます。次は、客観的に観れるように。
きっと大泣きです。
特異な例?
じゃないんですね。それが。
自分自身だけでなくて、
私には、救えなかった経験もあります。
いつもお姉ちゃんお姉ちゃんと慕ってくれていた
近所の兄弟。
まさか父親がアル中で母親が帰って来ないなんて、
小学5年生の私には想像もつきませんでした。
それも、あんなに無垢な笑顔の裏に。
目に見えないけれど、確実にそこにあるもの。
実は、今見えているものよりも、確実に多いのです。
むしろ、注意して見たって見えないことだってある。
ただ、そのことを周囲の人間が知っているかどうかがとても大きなこと。
事実を知ることができて良かったです。
ありがとうございました。
先程、映画「誰も知らない」を初めて観てここへたどり着きました。
この映画が公開されてもう何年もたちます。
悲しいことに現在このような事が当たり前に身近にある世の中だと思いました。
去年起きた2児置き去り事件も思い出してしまいます。
「誰も知らない」こんなことが私達の周りに日常的に潜んでいると思います。
自分の幸せの為に子供を犠牲にする…。
悲しいけれどとても良くあることなのではないでしょうか?
自分も一親として子供にとって一番大切なことは愛情と責任だと改めて考えさせられる作品でした。
とても、とてもリアルで衝撃的で今も胸が痛みます。
涙は、出ませんでした。
答えも、出ません。
ただ、子供達のまっすぐな目が忘れられません。
「お母さん」が、幼い子供達にとってどんなに大きな存在であるのか、
いつか私も「お母さん」になる時、
心に刻むべきことだと思いました。
レポートの課題で「誰も知らない」を初めて見ました。
モチーフとなった「西巣鴨子ども4人置き去り事件」についても、この映画を観るまでは知りませんでした。
自分が生まれる前にこのような事件があったことを知り、衝撃を受けました。
映画では、必死に生きていこうとする子どもたちの姿に悲しみ、つらさだけではなく、幸せも感じました。
それだけが希望だと思えました。
しかし、みんなが一緒に暮らしていくためとはいえ、大人に助けを求めずにこのまま生きていくことは子どもたちにとって良いことことだとは思えません。
けれど、自分がその場にいたとして、救おうとしても、何が正しくて、何が正しくないことなのかは、自分の独断でしかないし、本当の意味で救うのは不可能だし、そう思うのは傲慢なことだと思います。
制度だって彼らを本当の意味で救うことはできないです。
家族と愛がなければ。
まずは、自分には何ができて、何ができないのか、それを考えて、彼らを知ろうとすることから、全てが始まると感じます。
だけど、家に帰る時は毎日が怖かったです。
学校では、傷などを先生に聞かれるなどで児童相談所に連絡され、小4で、親と離れる事になり、施設に入れられました。
今は、高校1年生です。今年の夏休みに母親が急に生活費を残し、子供を残して姿を消しました。母親は「夏休みが終わったら戻って来るから心配しなくていいからね。」と言いながら今でも、戻って来て無いです。
なので、この映画を見た時、涙が沢山出ました。今は兄弟と父親で暮らしていますが、母親はいまだに戻って来てないです。
経験は成長するために必要。事実を受け止めるのは辛いかもしれませんが成長しながら生きていかなければなりません。逃げてもいつかまた壁にぶちあたります。
実話は実にいたたましい…。大阪でも風俗店勤務の女が餓死させた事件ありましたよね。それはごく一部ではなく悲しいですが人間誰しもありうる要素だと思います。こんな事件は大小関係なくしたら日常茶飯事ですよ。
この映画は今後もっと評価されると思います。平成の教育課題のひとつだと思います。『大人になりきれてない大人』
結局母親も父親も女と男ですから。
それをリセットして考え直す為にはどんぴしゃな映画です。
事件の詳細を知りたくてこちらに辿り着き、みなさんのコメントを読ませて頂いています。
みなさん、涙を流されていないのですね。
私もです。
子供は未熟だから、不器用だから子供だという事を、本当に淡々と、センチメンタルの隙を与えずに作られている映画なので、受ける側も淡々と見据えてしまいます。
この、言葉に出来ない、暗くて重い感情は何なのでしょう。
時代や個人の道徳概念に原因を求めても、虚しく響くだけで拠り所を見出す事が出来ません。
どうか世界中の子供達が平和で幸せでありますように!
実際にDVDを借りて観てみたところ、まんまと魅了されてしまいこちらのサイトまで辿り着くことができました。
沢山の方の感想が残っていてとても驚いています。
私も本当に涙が止まらなかったです。切ないです。苦しくて一瞬過呼吸まで発してしまいました。
映画ではこんなに綺麗に語られていますが、実際のことを思うとより息苦しくなりそうです。
この映画がある以上、こちらに記載している情報も一緒に残していてほしい。
再度見始めるのに10日間頭を巡った。
そして見終えたが、答えを生きるには
無力だなとおもった。
フクシマの子ども達、原発も止められない。
無力でも力を尽くそう。
未来を意識しよう。
私は「誰も知らない」を
小学生の低学年の時に偶然テレビで放送されているのを見ました。
私はこの映画を見た当時はまだ幼かったので、
映画を見て「この映画怖いな、子どもが死んじゃった」
などと漠然な印象しか持っていませんでした。
しかし高校生になった今でも、
その当時に見て感じた衝撃と複雑な感情が心に残っていて、
この作品のタイトルをずっと覚えていました。
そして18歳になった今、
この作品は現実に起こった出来事だと知りました。
今、この沢山の入り混じった感情を
言葉で表現する難しさを実感しています。
皆さんのコメントを読みました。
みんな思い思いの言葉で自分の感情や伝えたいことを
訴えるように書いていて、
すごく熱いものを感じました。
私は高校三年生で受験まっさかりです。
自分の進路(自分の生きていく道)を悩んでいます。
私はとにかく人と関わることが好きで、誰かの為になりたという思いから、
福祉の道を選ぼうとしていました。
だけど、この作品や皆さんのコメントを見て思いました。
「こんな甘ったれた理由で福祉の仕事をしたいだなんて言ってもいいのか」と。
世の中には現実にこのような出来事が実際に起きていて、
虐待や離婚、誰にも言えないような昔の深い傷や罪を
背負いながら生きている人は沢山いる。
これから私は、
このようなことが起こることを防いでいくことや、
このような人たちの私生活に入り込んで、知って、目で見て、
感じて、相談や援助をすることを自分は出来るのか?
沢山の人達の相手の気持ち・立場を考えていけるのか?
私にはまだ何もわからない世界なので
不安感や葛藤があり、迷っています。
ですが、このような人たちと支え合い関わり合って生きていくことは、
私の生きる意味かもしれなくて、自分の使命のようにも感じます。
私の世代は未来を作って行く世代という責任を持ち、
今一度、この作品を通して
自分のすべきことを考えさせられました。
上記にある「ゆうき」さんのコメントの、
「自分にには何ができて、何ができないのか、
それを考えて、彼らを知ろうとすることから、全てが始まると感じます」
という文章に心を打たれました。
乱文で失礼しました。
最後に一言、
今、この作品と向き合えてよかったです。
自分は親になるタマじゃないと自分で思ったら、親になる行為を最初っからしないほうがいいよね
幸せになってもいいんだけど、なり方を考えるべき
ぶっちゃけ、一生二次元美少女萌えでオナニーして終わる生き方でもいいじゃない
オナニーなら誰も傷つけないよ
そんなわけで、独身を通す人が近年増加傾向にあるってのは、ある意味とても良い事なのかもね
誰も巻き込まず、一人で生きて、一人で死んでいく
それでいいじゃないか。
むしろ虐待の絶えない今の世の中、もっと多くの人がそうするべき
もっともっと、確実で安価で簡単な避妊方法があったら、世界中の悲劇は減らせるのに。
当映画を見て色々を考えるだけでは無責任、他人事と思ってはいけない、
無関心な人は加害者も同等、人はもっと人に関心を持つべき、
といったご意見が一定数ある印象を受けました。
では私たち第三者が、当映画のような当事者となり得る少年少女たちを気にかけ、
仮に町で見かけたとして、仮に声をかけたとして、果たして何ができるのでしょうか?
私たち第三者の大人が差し伸べる手は、警察、児童相談所、養護施設等を指すことになります。
けれど当事者の少年少女は、これらの機関に行くことを望んでいるのでしょうか。
少なくとも当映画の長男は「児童相談所に相談すると兄弟四人で一緒に暮らせなくなる」
という理由から、公的機関に助けを求める選択肢を、最初から除外しています。
つまり、侭ならない生活からの脱出以上に、みんな一緒の生活を望んでいます。
そうでなければ、早期の段階で、公的に助けを求めているはずです。
また、こうした少年少女を、気にかけ、声をかけ、話を聞いてあげて、
本当のことを話してくれるとも限りませんし、本当のことを話してくれたとしても、
第三者である私たちにできることは、公的機関に通報することだけですよね。
結局最後は、お役所の人任せですよね。
自らで少年少女の親子関係を修復してあげられるわけでもないのに、
まして自らで少年少女を引き取ることもできないくせに、
通報するだけで、少年少女のその後の面倒も見れず責任も取れないくせに、
公的機関に送れば救済、という考え自体、第三者ならではの浅はかさを感じます。
極論ですが、第三者のエゴのようにも感じられますし、当事者の望みを無視し、
勝手に気にかけて、ちょっと話を聞いて通報して、お役所任せにする人の方が、
“自分はいいことをしてあげた”という優越感に酔いたい偽善者のように思えます。
勿論ケースバイケースですので、公的な助けを求めている少年少女はいると思いますし、
少年少女と称するに満たない幼児の場合は、間違っても上記の話の限りではありません。
ただ、少年少女の場合、公的機関に助けを求めないのは、求め方が解らないのではなく、
求めようにも求められない理由があるからなのではないでしょうか。
それも、生命を危機に晒してでも求めたくない理由が。
当事者の気持ちは当事者にしか解らないように、
当事者の少年少女にとっての幸せが何なのかも、
千差万別な上、当事者の少年少女にしか解りません。
当映画の表題である「誰も知らない」は本当に秀逸で、“知らない”ことは恐ろしいことであり、
知らないからこそ救えない命があった事実も、実際に事件として起こってしまっています。
ですが、知ったからといって救えるとは限らないということを、もっと“知って”ほしいです。
せめて知ればどうにかしてあげられる、なんて、そんな甘い話ではないと思います。
当事者の少年少女たちにとっては。
私はもう30半ばになりますが、30になるころまで母がしたことを育児放棄と捉えていませんでした。あなたのお母さんは一人であなたたちを育てているのだから、立派な人だと周りの大人に言われてきたからです。世間的にはそういうことになるのでしょうが、実際は映画のように家の中は異臭を放ち、長男がしていたように服は臭いをかいで選び、ガス電気が止まることもよくありました。
今やっと、自分のされてきたことを、受け入れられるようになりました。8歳のころに母に言われた言葉、『あんたのせいで、私はなにもできない!!たまにはひとりにしてよ!!』の言葉をもろに受け、まるで宗教のように絶対なもの=母の怒りから、自分の存在自体に罪悪感を感じてしまった。素直な子供の私は、私がいること自体が母を困らせるんだ、と思いました。
いまならちゃんと言い返せるのに
子供は素直で柔らかいですよね。
親は今でも子供のよう。
兄は10年以上ひきこもりです。
そうした原因は親にあるのに、親は兄を、だらしがないといって責めます。虐待のようです。
こういうことはあまりこんな私を理解してくれる人と出会えるまで、孤独なまま生きざるをえないと心に決めて耐え過ごしています。
最近増えてきた現象のように受け取れる描き方でしたが、そういえば昔にも同じような事件があったよなあ…と、この映画「誰も知らない」の元ネタになった巣鴨の事件を思い出しました。
こちらの皆さんのコメント(体験談)を読むと、このようなことは昭和の時代からあったし、戦前でもあったことが分かります。遡れば明治時代にも、江戸時代以前にもあったんでしょう。
巣鴨事件の当時のニュースで、加害者となった母親の両親(子どもたちからは母方の祖父母)が、「娘は勘当したので自分たちには関わりがない」という旨のコメントを出していたのを覚えています。
まあ、この母親の無軌道ぶりじゃあねえ…と、当時は納得してたんですが、こちらの記事を読み、最初の結婚での猛反対とか、初めての子を養子に出した件、次に生んだ長男の出生届を出せずじまいだったことなど、新たな事実を知りました。
もしや母親の両親は厳格すぎて、娘が自分たちに従わなければ突き放して援助もしないという、いわゆる毒親の傾向があったのではないかと思い至りました。
母親の最初の結婚相手、長男の父親ももっと責任を問われて然るべきですね。
大丈夫?
おなかすいていない?
って声をかけることから始めなくては。
近所に少し似た兄弟がいました。いや、います。もう一番下の子が中学生になっていますが、長男の子が面倒を見ていました。親が育児放棄して、小学生のころは、給食をたべる時間だけに学校にきていましたっけ。。
身近にいるのでした。忘れていることが、「誰も知らない」状態をつくってしまっています。